from Delhi

なぜかインドのデリーにいるわけですが、あと二時間後にはアムリットサルへ出発し、再びパキスタンを目指します。今回パキスタンは駆け抜けるように移動する予定なので、2月の中旬にはイランに入れることでしょう。パキスタンの南側、興味が無いわけではないのですが、ちょっと治安の面で不安な点も多いので、今回はパス。15日にクエッタから出るであろう国際列車(だっけ?)に乗るのも悪くないかな、と思っていたり。
それにしても、今回で三回目のデリー、以前とはまた変わった気がする。初めてこの街に来たのは18歳だった5年前、二回目に来たのは3年前でその時僕は二十歳だった。で、今回。自分の視線が変わったのか町自体が急速に変わりつつあるのか、その具合はよくわからないけれど、まあ、どっちもあるんだと思う。
はじめてこの町に来たときはいっぱいいっぱいだった。ご多分に漏れず空港からのトラブル(そんな大したものではなかったけれど)に巻き込まれ、緊張と戸惑いに神経をすり減らしていた、と現在では思い返す。きっと笑顔はこわばっていたはずだ。年上の旅行者たちに気後れと気恥ずかしさを感じ、遠ざかることも近づくこともできず、声を掛けられるのを待って妙な位置から彼らの眺めていたんではないかしら。その時僕が見たデリーは、インドの入り口でもあり出口でも合ったデリーは、僕のそのころのインドのイメージに、大きな影響を与えていただろう。喧騒と混沌の町として。
二回目に来たときはもう少し余裕が出来ていた。少しは経験も積んだし、過去に一度来たことのある町であったというのも大きかったと思う。そのころの僕には、デリーはインドの中の町の一つという意味合いしかなかったと思う。首都であり大きな町ではあるが、それだけ。ただ、少し町の景色が変わっていたことには驚いてもいた。路肩では風呂敷を広げて携帯電話を売る人間がわんさかといて、コンノートプレイスの回りではジーパン姿の人間が目立つようになり、メインバザールにはハングル文字が顔を出し始めていた。二年だけのはずなのにずいぶん変わったな、と思ったはずだ。そして、次の町へと再び旅立っていった。
で、今回。もう旅も九ヶ月を過ぎてしまっているから、やはりデリーは旅の途中で寄った一つの町でしかなかった。しかも、不本意ながら、だ。しかし、ビザの取得の関係で結局一週間以上いることになってしまった今となってみると、僕が過去と比較することのできる数少ない町だということに気が付き、その変わりように率直に驚く。そして、これまで旅をしてきた地域との関係をぼんやりと考えたりもする。あんなにもわんさかといた路肩で携帯を売る人間たちは完全に消えてしまい、変わりに携帯電話はデリーで生活する人間たちの生活に完全に溶け込んでいた。コンノートプレイスの中心はきれいな緑の茂る公園となり、平日の日中からカップルなんかが芝生に寝転がって笑い合っている。彼ら彼女らの多くはジーパンをはいている、ちょっと過剰なほどに。三本の地下鉄が開通し、駅の構内は空港かと見まごうばかりのきれいさで、乞食が寝転がってもいない。メインバザールでは、修学旅行生のような、明らかに十代の韓国人旅行者たちが大勢で闊歩している。驚くことに、いや、驚くことではないのかもしれないけれど、彼ら彼女らのなかにはスーツケースで旅をしているものも多い。まあ、もう書くのが面倒になってきたからコメントはつけないけど、とにかくすごい変わりようだ。BRICsとか言われているけど、そんな三十年前のヨーロッパのおもちゃみたいな名前の響きよりも、よっぽど生活に根ざす何かがデリーで、あるいはインドで、変わりつつようにあるように思われた。
そんな感じ。

「ここはどこだろう」

と、そうつぶやく。
昼間から薄暗い、うねるバザールの小道を、行き先もなく迷い続けているときに。ムスリムであふれかえる小汚い食堂で、いつ来るとも知れない人間を待ちながら、アザーンを耳にするときに。糞をひりながら、真っ黒に塗りつぶされてしまった、ドアに描かれた卑猥なイラストを眺めているときに。

「ここはどこだろう」

黄緑色の壁紙、汚物で湿る泥道、美青年の指で光る大きなガーネット、花輪をかけられた羊、血で道をぶよぶよにする肉屋、次々と頚動脈を切られていく山羊たちの瞳、回る鶏、笑う女の金歯、ひるがえるオレンジ色のスカーフ、青色のスカーフ、緑色のスカーフ、黄色い目をしながら座って小便をする男たち、頭には深く赤いターバン、群青色の頭痛、モスグリーンの眩暈、そう、ねえ、眩暈がするんです。

「ここはどこだろう」

そう、頭が痛いんです、頭が痛いんです頭が痛いんです頭が痛いんです頭が痛いんです僕がいたいのはここではないんですどこなのかは分からないけどここではないんです歩き続けてはいるけれどどこへかなんて分かりません座ってようが歩いてようが同じことなんです僕には待つことしか出来ないんです歩きながら待っているんですあなたは笑いますかあなたは笑うんですかでもあなただって待っているんでしょうそんな卑屈な笑いを浮かべながらそれでも待っているんでしょうそれしか出来ないんでしょう待つことしか出来ないんでしょう――。

「ここはどこだろう」

言葉を飲み込みながら空を見上げる。暗い建物に隠れて、うっすらと、それでも空はまだ青い。


溶暗


照明


かわいい少女。くせ毛をした、肌がつややかに黒い、目のくりくりと大きな、顔をくしゃくしゃにしてこっちに笑って。彼女はもう完全に僕に気を許してしまって、僕と手をつなぎ、僕に抱きつき、僕にしがみついてくるんだ。そのたびに僕は彼女のお馬さんになってやり、高い高いをやってやり、体をぐるぐると回転させてあげる。そうすると彼女は顔をくしゃくしゃにして笑うんだよ。僕のまったく分からない言葉をまくし立ててさ。あるとき一緒にトムとジェリーを見ていたら、その子が突然僕の頬にキスをしてさ、それがあまりに突然だったものだから驚いて見てみたら、彼女、あの笑顔で顔を赤くさせて、ソファーにもぐりこんじゃったよ。なんていうのかな、こういうの説明がいらないと思うんだけど、僕はとても幸せになっちゃって、やっぱり笑ったんだよ、顔をくしゃくしゃにして。一緒に笑いあってさ。そういうのって言葉が必要ないだろ?目の前にその人が存在するっていうのが重要なんだ。だからさ、それが今のところ僕が旅を続ける理由かな。


溶暗

from Chitral

世界は青白く輝いていた。日は暮れ、月も星も見えない雲の中にあって、それでも、世界は輝いていた。そびえる山々や谷間の村々、音も無く降り積もっていく雪におおわれて、それ自体青い光を発しているようだった。頬にあたる雪を含んだ風が刺さるようだったが、僕は何か美しい驚きにつつまれてあたりを眺めていた。足先の感覚はもうなくなっていた。どうやら靴の中で氷ができているようだった。そして、向かいのS氏はホモにケツを撫でられていた。ジープの荷台の上。険しくも美しい、冬のシャンドゥール峠越え。
シャンドゥール峠----パキスタンのギルギット−チトラール間にある標高3810メートルの峠。目指すカラッシュバレーへはこの峠を越えるのがほぼ唯一の方法だと、僕のなかでは決まっていた。それは、ペシャワールを経由してロワリー峠を越える煩わしさというのもさる事ながら、かつてこの道を通った旅行者に強く勧められていたためでもあった。幸いギルギットで確認してもらった段階では支障なく通れるという話だったので、12月1日、僕はギルギットを後にしたのだった。カリマバードで出会ったS氏も同じバスで出発。彼はパンダールを、僕はカルティ・レイクを、とりあえず目指した。

その日は天気も悪くなく、特に問題なく目的地に着く事ができた。湖のほとりにあるその名もレイク・ビュー・ホテルは、こじんまりとしていたがきれいなホテルで、以前は海外の一流ホテルのレストランで腕を振るっていたという主人も、眼下に広がる湖のように静かで良い人だった。このカルティという村は、村という名を冠するのがためらわれるような、たった5、6軒の家が路傍にたたずむだけのもので、湖をぼんやり眺めるためだけにあるような様子が今回の僕には気に入った。エメラルドグリーンの透きとおった湖に映える山と空は、一見の価値があるものだと思われた。

翌日、二時間くらい待ってギルギット発マスツージ行きのバスに乗り込む。乗客が多かったので荷物を降ろして立っていた。荷物は遠慮無く踏まれるし、山道を走るバスの揺れが激しくて立っているのが辛く、とても車窓の外を楽しむ事などできなかったが、パンダールの前あたりから乗客がぼろぼろ降りはじめて、なんとか座席に腰を落ち着ける事ができた。と、パンダールのチェックポストでS氏が乗り込み再び合流。手には毛布。いくつかの窓ガラスが存在しないこのバスの気温は急激に落ち込みはじめていた。パンダールを出たあたりからチラチラと雪が降り始め、しばらくいくとあたりが雪景色に変わり、降る雪の勢いも強くなっていった。わーい、ヤクだ。川がこおってらー。雪道通るのに窓がねえってどういうことよ!?などと上がっていったテンションも時間がたつにつれてどこえやら、普通の運動靴をはいている足先が痛みはじめ、「凍傷になるときってどんな感覚なんでしょうか・・・」などと北海道出身のS氏にまじでたずねる僕がそこにはいた。

どんどん深くなっていく雪道を、それでもバスは進んでいたが、とうとうシャンドゥール峠のピークを越えたというところでおもむろに止まってしまう。そして、車掌と思しき人間が近寄ってきて一言。

「カミン! バイフット!バイフット!」

良く意味が分からなかった。カミン・・・ミとカをひっくり返すとミカン、ンの棒の角度を変えればミカソミカソピカソに似ている・・・などと考えていたわけではないが、呆然としている僕を尻目にS氏が状況を尋ねると、雪がたくさんProblem、もうやだからgo back to ギルギット、という事らしかった。冗談じゃねえ、こんな道歩いてられっか、俺達も帰るっツーの、とS氏がまくしたてる。車掌はOKと言い、バスは転回を始める。しかしその時、僕は呆然としながらも、歩こうかどうか迷っていた。カラッシュバレーの祭りはパキスタンでのハイライトになるはずだったのだ、ここで帰ってもまたすぐに峠が開くという保証も無い、開くのを待っている間におそらく祭りは始まってしまうだろう、2、3時間ですむなら歩いてもいいんじゃないだろうか・・・。と、おもむろにほかの乗客たちが立ち上がり、何やら準備をしはじめた。ローカルが行けるなら、俺だってきっと行けるはずだ! そう意を決すると、降りしきる雪やあたりを包みはじめた闇などの悪条件も、もはや僕のモチベーションを上げる材料にしかならなかった。S氏にやっぱり歩いていく事にしたと告げると、生きてたどり着いたらメールをくれ、というありがたい言葉が返ってきた。
これから訪れる試練へ向けて、靴下を二重に履き込み、股引をはこうとしていると、もう外に出ていた仲間たちが「ジープカミン!」と叫んだ。ジープ!? そうなると話は変わってくる。凍傷のために指を切断する画を想像していた僕は、はこうとしていた股引を首に巻き付け、急いで外へ出た。と、目の前にはジープ、先に用意のできた人たちは早くも乗り込もうとしている。遅れてこの機会を逃してなるものかと急いで荷物を担いで再び外に出ると、なんとジープは走りはじめていた。
「ストーップッッ!! ストップッッッ!!!」
叫びながら一目散に駆けはじめる。なんとか後ろに追いついて手すりにすがり付きながら叫び続ける。
「すとっーーーっぷ、すとーーーっっっぷ!!」
恥も外聞もなかった。荷物を担いだまま雪にまみれ不格好に、それでも2、30メートルは走っただろうか、やっとジープは止まってくれた。急いで荷台に荷物を担ぎ込み、自分も乗り込む。S氏も乗り込む。
そうしてジープは走り出した。風が冷たかった。足先がちぎれたようだった。S氏は執拗にケツを撫でられていた。それでも世界は輝いていた。青白く、弱々しく、輝いていたのだった。

Chinese food, American life, Japanese wife

なんだかんだで一ヶ月。
その間に色々な出来事があった気がするし、移動ばかりしていた気もするが、つまるところそれは同じものを別の角度から見た表現でしかないんだろう。


今、僕はパキスタンの北部、フンザ・バレーに位置するカリマバードという町、というか村にいる。もうオフシーズンに入り、観光客の姿もまばら、店もシャッターを閉め始めたこの村からは、それでも7000メートルを超える山々の姿が見渡せるわけで、着々と冬に向かうこの地に植わる、中途半端に服を脱がされたような木々とともにかもし出す景色は、とてもすばらしい。寒いけれどね。
ま、なんで今こんなところにいるかということを説明するのも面倒なので、それは各人の想像に任せるとして、今ここで僕が書きたいのはこの地域のすばらしさなんだけど、それをだらだらと説明するのも面倒になってきたから、その素晴らしさをこんな比喩で表現させてもらう。


 ウミガメが滑って転んだときに腹部に乗っていたのは、黒く炭になった一本の歯磨きだった。


これである。いや、これなのか? という気もするが、そういうことにしておこう。


ちなみに、今回の表題は中国からのバスの中でなかよくなったパキスタン人が、自分達が望む者としてあげたもの。ここから現代の風俗産業のグローバル化とその一面にスポットを当てた考察へと進んでいこうと当初は考えていたのだが、もういい加減面倒になったので、やめることにする。
この日記が歪曲と切り捨てによって成り立っていることを悲しく思うけれど、読者にはそれが何かを書くという時に絶えず付きまとってしまうものであると考えてもらって、許してもらいたい。いっそのこと経験した出来事をフィクションにまで昇華させれば書くほうも読むほうも面白くなるのかもしれない。ちょっと考えてみよう。


というわけで、とりあえず元気にやっております。

days in Semiparatinsk

 北朝鮮が地下核実験を行ったという日に、僕はセミパラチンスクの町にいた。
 セミパラチンスクはカザフスタン北東部の町――ドストエフスキーが5年間生活し、ソ連時代に467回の核実験が行われた場所。これら二つの事実に特に関連があるとも思われないけれど、この並列が何か一つ意味するとすれば、それは「ロシア」内におけるセミパラチンスクの地政学的な周縁さなのだろう。


 はじめに書いておかなければならないのは、僕は運がよかったということだ。旧首都のアルマティに滞在していたとき、たまたま同室になったロシア人(国籍はカザフスタン)のおっさんがセミパラチンスクに住んでいたからだ。もちろんそれだけでは取り立ててどうということはないのだが、僕の拙いロシア語と、白水社の小事典、そして何よりも彼の気さくな性格により、僕らは仲良くなることが出来た。彼の名前はバロージャ(ウラジーミルの愛称)といった。次女のドイツ留学のためのビザを取りに来ているという。そうだ、俺には息子が一人、娘が二人いるが、全員海外に留学させている、長男はロシアへ、長女はドイツへ、そして今度は次女をやはりドイツへ送り出すんだ、長男は帰ってきてセミパラチンスクで仕事をしているし、長女は結婚してドイツで暮らしている。そうか、それはいいことだと思うよ、ところで僕は日本からの旅行者でもう5ヶ月以上旅をしている、今度はセミパラチンスクへ行くつもりだ、セミパラチンスクはどんな町だい。セミパラチンスクは俺の町だよ、しかしなんでセミパラチンスクへ行くんだ。わからないよ、ただあそこは多くの核実験が行われた場所だろ、それにドストエフスキーも住んでいた、博物館もあるそうじゃないか、僕は高校生のころドストエフスキーが大好きだったんだよ、今も好きだがね。そうか……俺は知っているぞ、日本もアメリカに核爆弾を落とされただろ、ヒロシマナガサキだ。その通りだよ、僕の祖父はヒロシマにいたそうだがね、ひどい有様だったということだよ。そうか、俺はもう明日発つが、セミパラチンスクへ着たらここへ電話してくれ、俺の家へ招待するよ。ということで、こんな風に会話が続いたかどうかはわからないが、とにかく彼の家に行くことになった。
 もう冬が始まっている観のあるセミパラチンスクに降り立ったとき、僕はまだバロージャの家へ行くのをためらっていた。たった一泊宿を一緒にしただけで、娘が留学する直前の家庭を訪ねるのはどうかと思ったからだ。しかし、宿を三軒まわって、ロンプラの値段表示のいい加減さを知ると、電話をかける決心が出来た。セメイホテルで電話を借りてかけると、若い女の声がした。僕は日本人の旅行者だ、camelnikovという、バロージャはいるか。そう告げると父親から話を聞いていたらしく、娘は朗らかに何事かを言って父親と電話を替わってくれた。しかし、これは英語でもそうなのだが、対面するよりも電話口だといいたいことが伝わりにくい。僕の拙いロシア語と、娘のやはり拙い英語で何とか意思の疎通を図って現在の状況を説明し、バロージャに車で迎えにきてもらうことになった。待っている間、僕はまだ見ぬバロージャの娘のことを想像し、少し緊張していた。
 バロージャの家は市の中心部から車で10分弱ほど離れたところにあった。平屋の家屋に、色々な野菜を植えた大きな庭、ロシアサウナのバーニャに外接のトイレ。バロージャの家を簡単に描写するとこんなものだろうか。車は2台あった。バロージャがドイツから運転して持ってきたという真っ赤なアウディと、ソ連時代から残る真っ白な「スターリン」。アウディのほうが日用車らしく、僕を迎えに来てくれたときもこれだった。
 家の中に入るとユーリャが部屋着を着たまま僕らを待っていた。ユーリャとはバロージャの娘のことだ。化粧は濃かったが、かなりの美人だった。僕は緊張してしまってしまりのない笑顔を向けながら、彼女と挨拶を交わした。どうもどうも、私がcamelnikovです。奥さんと息子はまだ仕事で帰っていなかった。こうして、セミパラチンスクでの日々が始まった。


 と、ここまで書いてきましたが、これ以上書くのが面倒になってきたので、暇なときに書き足します。
 

from オシュ

というわけで、無事オシュに着きました。
今日の早朝、まだ日の昇らぬ5時ごろのことです。


結局バスは使いませんでした。週二本のバスをやり過ごさなければならなくなる恐怖や銀行のATMでカードが飲み込まれるというアクシデント乗り越え、粘り強く待った甲斐があり、前々日から知り合っていたアメリカ人のほかにスペイン人の二人組みが集まったのです。
ここで彼らの紹介を簡単にしておきましょう。
アメリカ人  上の前歯がすきっぱなせいで笑顔がちょっとひょうきん。
スペイン人A  ミッシェル・フーコー西尾幹二を足して3で割った幹二。
スペイン人B  なんていうか、身長二メートルのガットゥーゾ
外見はこんなところでしょうか。これだけ読むとひどいと思うかもしれませんが、結構いいやつらです。


で、早朝の5時20分にホテルのロビーに集合し、まずはタクシーで国境のイシュケルタム峠を目指しました。一人75元。まだ人気の少ない道路を車は快調にとばし、10時前にははじめのゲートに着いた。町といえるものなんかなくて、閑散としていた。時間のせいか、キルギスに向かうトラックばかりが目に付く。なんの問題もなくイミグレーションを通過し、建物を抜ける。と、そこは山、山、山。その間を舗装された一本道が延びている。なんとキルギス川の最終ゲートまで10キロほどの距離があるのだ。初めはそこを歩くことになるのかと一同沈んでいたが、係員(?)に聞くとどうやらトラックをヒッチハイクできるらしい。ので、僕らは同じくキルギスへ向かうウズベク人の人たちと話しをしながら乗せてもらえる車を待つ。しばらくして鉄筋を運ぶトラックの荷台に乗せてもらえるということになった。話をしていたみんなで乗り込む。ゆっくりと頬をなでる風が気持ちいい。快調、快調、などと思っていた僕が甘かった。
二回目のパスポートチェックを受けたあと、おもむろにトラックが止まった。12時ちょっと前。待てど暮らせど車が動き出す様子はない。一緒にトラックに乗ったウズベク人に聞くと、どうやら2時までお昼休みらしい。どんだけ役所仕事なんだよ!などと思いながら、強くなってきた日差しの下で時間をつぶす。2時ちょっとすぎには車が動き出したが、役人の効率の悪さもあって渋滞気味。目的の分からないパスポートのチェックを5,6回受けた末、4時ごろにキルギスタン側のゲートを出ることができた。長さ10キロの国境線エリアを実に5時間以上かけて通過したことになる。歩いたほうが早いやね。
キルギスタン側はバラックでできた家々でちょっとした村みたいになっている。いや、村じゃないんだけど、一応のインフラは整っているんじゃないかと思う。で、そこでしばらくトラックの運ちゃんたちと交渉し、サルタシュという最寄の町まで乗せてもらえることになった。三台のトラックに国籍で分かれて乗車。いざ発進。……が、このトラックも遅い。上り坂や下り坂などだと早歩きくらいのスピードしかでない。自転車に追い抜かれるありさま。しかも道路がまったく舗装されていなくて結構ゆれる。その間、トラックの運ちゃんとロシア語で簡単な会話。始めてロシア語を活用できて少しうれしい。まあ、かなり忘れちゃってるんだけど。それでも少しは仲良くなれて、プレゼントとしてウイグル人歌手のカセットテープをもらった。使いようはないが、うれしい。窓の外の景色も抜群にすばらしかった。
夜九時ごろ、サルタシュに到着。本来はここで降りるはずだったのだが、すきっぱのアメリカ人と話した結果、そのままオシュまで連れて行ってもらうことにした。スペイン人二人は悩んでいた。無理もない。みんなもうかなり疲れているのだ。が、彼らも結局オシュまでいくことに。トラック、再び発進。座席に積んであった荷物がその町でおろされたのと、道路が少しよくなったのとで、乗り心地が少しよくなった。
途中、お茶と簡単な食事(パンとサワークリームののった目玉焼き。まともなものを食っていなかったからめちゃうまかった)のための休憩を挟んで、早朝の五時ごろオシュに着いた。お世話になった運転手たちと握手をして分かれた。ちなみに運賃は請求されなかった。いろいろとお世話になったから少しは渡したかったけれど、機を失ったのと、ほかの連れが渡す気がなさそうだったのとで、渡し損ねる。あ、今思ったんだけど、彼ら(アメリカ人とスペイン人たち)は影でこそっと渡してたんだろうか。うーん、俺にはそんなスマートなまねできないなあ。まあ、事実はわかんないんだけど。とにかく、トータルの運賃は中国側のボーダーに行く使った75元(10ドル)だけ。バスで行くよりも40ドルほど浮いてしまった。


その後は2時間ほど歩いてホテルを探し、爆睡。起きてから銀行を探し、換金して飯を食ってから、アヴィールというのを探し当て、滞在登録を済ます。中央アジアは滞在登録が面倒くさそうだと思っていたけど、案外あっさり済んだ。で、現在に至る。
オシュは旧ソ連の影響がまだ残っている感じで、そんなに大きな距離を移動したわけじゃないのに、これまでの中国の町と雰囲気が大きく違う。歩いている人間も違うし、家の作りも違うし、文字はキリル文字に変わるし、まあ、とにかく中国とは大きく違う。ホテルを探しているとき、大きなミーシャがペイントされたぼろいアパートを発見し、ちょっと感動した。


まあそんなわけで、僕は元気にやっております。時間もないので、今回はこんな感じで。