days in Semiparatinsk

 北朝鮮が地下核実験を行ったという日に、僕はセミパラチンスクの町にいた。
 セミパラチンスクはカザフスタン北東部の町――ドストエフスキーが5年間生活し、ソ連時代に467回の核実験が行われた場所。これら二つの事実に特に関連があるとも思われないけれど、この並列が何か一つ意味するとすれば、それは「ロシア」内におけるセミパラチンスクの地政学的な周縁さなのだろう。


 はじめに書いておかなければならないのは、僕は運がよかったということだ。旧首都のアルマティに滞在していたとき、たまたま同室になったロシア人(国籍はカザフスタン)のおっさんがセミパラチンスクに住んでいたからだ。もちろんそれだけでは取り立ててどうということはないのだが、僕の拙いロシア語と、白水社の小事典、そして何よりも彼の気さくな性格により、僕らは仲良くなることが出来た。彼の名前はバロージャ(ウラジーミルの愛称)といった。次女のドイツ留学のためのビザを取りに来ているという。そうだ、俺には息子が一人、娘が二人いるが、全員海外に留学させている、長男はロシアへ、長女はドイツへ、そして今度は次女をやはりドイツへ送り出すんだ、長男は帰ってきてセミパラチンスクで仕事をしているし、長女は結婚してドイツで暮らしている。そうか、それはいいことだと思うよ、ところで僕は日本からの旅行者でもう5ヶ月以上旅をしている、今度はセミパラチンスクへ行くつもりだ、セミパラチンスクはどんな町だい。セミパラチンスクは俺の町だよ、しかしなんでセミパラチンスクへ行くんだ。わからないよ、ただあそこは多くの核実験が行われた場所だろ、それにドストエフスキーも住んでいた、博物館もあるそうじゃないか、僕は高校生のころドストエフスキーが大好きだったんだよ、今も好きだがね。そうか……俺は知っているぞ、日本もアメリカに核爆弾を落とされただろ、ヒロシマナガサキだ。その通りだよ、僕の祖父はヒロシマにいたそうだがね、ひどい有様だったということだよ。そうか、俺はもう明日発つが、セミパラチンスクへ着たらここへ電話してくれ、俺の家へ招待するよ。ということで、こんな風に会話が続いたかどうかはわからないが、とにかく彼の家に行くことになった。
 もう冬が始まっている観のあるセミパラチンスクに降り立ったとき、僕はまだバロージャの家へ行くのをためらっていた。たった一泊宿を一緒にしただけで、娘が留学する直前の家庭を訪ねるのはどうかと思ったからだ。しかし、宿を三軒まわって、ロンプラの値段表示のいい加減さを知ると、電話をかける決心が出来た。セメイホテルで電話を借りてかけると、若い女の声がした。僕は日本人の旅行者だ、camelnikovという、バロージャはいるか。そう告げると父親から話を聞いていたらしく、娘は朗らかに何事かを言って父親と電話を替わってくれた。しかし、これは英語でもそうなのだが、対面するよりも電話口だといいたいことが伝わりにくい。僕の拙いロシア語と、娘のやはり拙い英語で何とか意思の疎通を図って現在の状況を説明し、バロージャに車で迎えにきてもらうことになった。待っている間、僕はまだ見ぬバロージャの娘のことを想像し、少し緊張していた。
 バロージャの家は市の中心部から車で10分弱ほど離れたところにあった。平屋の家屋に、色々な野菜を植えた大きな庭、ロシアサウナのバーニャに外接のトイレ。バロージャの家を簡単に描写するとこんなものだろうか。車は2台あった。バロージャがドイツから運転して持ってきたという真っ赤なアウディと、ソ連時代から残る真っ白な「スターリン」。アウディのほうが日用車らしく、僕を迎えに来てくれたときもこれだった。
 家の中に入るとユーリャが部屋着を着たまま僕らを待っていた。ユーリャとはバロージャの娘のことだ。化粧は濃かったが、かなりの美人だった。僕は緊張してしまってしまりのない笑顔を向けながら、彼女と挨拶を交わした。どうもどうも、私がcamelnikovです。奥さんと息子はまだ仕事で帰っていなかった。こうして、セミパラチンスクでの日々が始まった。


 と、ここまで書いてきましたが、これ以上書くのが面倒になってきたので、暇なときに書き足します。