from Chitral

世界は青白く輝いていた。日は暮れ、月も星も見えない雲の中にあって、それでも、世界は輝いていた。そびえる山々や谷間の村々、音も無く降り積もっていく雪におおわれて、それ自体青い光を発しているようだった。頬にあたる雪を含んだ風が刺さるようだったが、僕は何か美しい驚きにつつまれてあたりを眺めていた。足先の感覚はもうなくなっていた。どうやら靴の中で氷ができているようだった。そして、向かいのS氏はホモにケツを撫でられていた。ジープの荷台の上。険しくも美しい、冬のシャンドゥール峠越え。
シャンドゥール峠----パキスタンのギルギット−チトラール間にある標高3810メートルの峠。目指すカラッシュバレーへはこの峠を越えるのがほぼ唯一の方法だと、僕のなかでは決まっていた。それは、ペシャワールを経由してロワリー峠を越える煩わしさというのもさる事ながら、かつてこの道を通った旅行者に強く勧められていたためでもあった。幸いギルギットで確認してもらった段階では支障なく通れるという話だったので、12月1日、僕はギルギットを後にしたのだった。カリマバードで出会ったS氏も同じバスで出発。彼はパンダールを、僕はカルティ・レイクを、とりあえず目指した。

その日は天気も悪くなく、特に問題なく目的地に着く事ができた。湖のほとりにあるその名もレイク・ビュー・ホテルは、こじんまりとしていたがきれいなホテルで、以前は海外の一流ホテルのレストランで腕を振るっていたという主人も、眼下に広がる湖のように静かで良い人だった。このカルティという村は、村という名を冠するのがためらわれるような、たった5、6軒の家が路傍にたたずむだけのもので、湖をぼんやり眺めるためだけにあるような様子が今回の僕には気に入った。エメラルドグリーンの透きとおった湖に映える山と空は、一見の価値があるものだと思われた。

翌日、二時間くらい待ってギルギット発マスツージ行きのバスに乗り込む。乗客が多かったので荷物を降ろして立っていた。荷物は遠慮無く踏まれるし、山道を走るバスの揺れが激しくて立っているのが辛く、とても車窓の外を楽しむ事などできなかったが、パンダールの前あたりから乗客がぼろぼろ降りはじめて、なんとか座席に腰を落ち着ける事ができた。と、パンダールのチェックポストでS氏が乗り込み再び合流。手には毛布。いくつかの窓ガラスが存在しないこのバスの気温は急激に落ち込みはじめていた。パンダールを出たあたりからチラチラと雪が降り始め、しばらくいくとあたりが雪景色に変わり、降る雪の勢いも強くなっていった。わーい、ヤクだ。川がこおってらー。雪道通るのに窓がねえってどういうことよ!?などと上がっていったテンションも時間がたつにつれてどこえやら、普通の運動靴をはいている足先が痛みはじめ、「凍傷になるときってどんな感覚なんでしょうか・・・」などと北海道出身のS氏にまじでたずねる僕がそこにはいた。

どんどん深くなっていく雪道を、それでもバスは進んでいたが、とうとうシャンドゥール峠のピークを越えたというところでおもむろに止まってしまう。そして、車掌と思しき人間が近寄ってきて一言。

「カミン! バイフット!バイフット!」

良く意味が分からなかった。カミン・・・ミとカをひっくり返すとミカン、ンの棒の角度を変えればミカソミカソピカソに似ている・・・などと考えていたわけではないが、呆然としている僕を尻目にS氏が状況を尋ねると、雪がたくさんProblem、もうやだからgo back to ギルギット、という事らしかった。冗談じゃねえ、こんな道歩いてられっか、俺達も帰るっツーの、とS氏がまくしたてる。車掌はOKと言い、バスは転回を始める。しかしその時、僕は呆然としながらも、歩こうかどうか迷っていた。カラッシュバレーの祭りはパキスタンでのハイライトになるはずだったのだ、ここで帰ってもまたすぐに峠が開くという保証も無い、開くのを待っている間におそらく祭りは始まってしまうだろう、2、3時間ですむなら歩いてもいいんじゃないだろうか・・・。と、おもむろにほかの乗客たちが立ち上がり、何やら準備をしはじめた。ローカルが行けるなら、俺だってきっと行けるはずだ! そう意を決すると、降りしきる雪やあたりを包みはじめた闇などの悪条件も、もはや僕のモチベーションを上げる材料にしかならなかった。S氏にやっぱり歩いていく事にしたと告げると、生きてたどり着いたらメールをくれ、というありがたい言葉が返ってきた。
これから訪れる試練へ向けて、靴下を二重に履き込み、股引をはこうとしていると、もう外に出ていた仲間たちが「ジープカミン!」と叫んだ。ジープ!? そうなると話は変わってくる。凍傷のために指を切断する画を想像していた僕は、はこうとしていた股引を首に巻き付け、急いで外へ出た。と、目の前にはジープ、先に用意のできた人たちは早くも乗り込もうとしている。遅れてこの機会を逃してなるものかと急いで荷物を担いで再び外に出ると、なんとジープは走りはじめていた。
「ストーップッッ!! ストップッッッ!!!」
叫びながら一目散に駆けはじめる。なんとか後ろに追いついて手すりにすがり付きながら叫び続ける。
「すとっーーーっぷ、すとーーーっっっぷ!!」
恥も外聞もなかった。荷物を担いだまま雪にまみれ不格好に、それでも2、30メートルは走っただろうか、やっとジープは止まってくれた。急いで荷台に荷物を担ぎ込み、自分も乗り込む。S氏も乗り込む。
そうしてジープは走り出した。風が冷たかった。足先がちぎれたようだった。S氏は執拗にケツを撫でられていた。それでも世界は輝いていた。青白く、弱々しく、輝いていたのだった。