from 成都

言いたいことなんて何もない。
とはいえ、何も見てこなかったわけではない。
僕は見た、満天の星空の下の松茸市場を、イナバウアーの五万倍はすごい男たちの馬の扱いを。
でも、時間がたつにつれていいたいことは何もなくなっていく。
表現できないことのように思えてくる。
面白いと思った夢を誰かに話してもあいまいな微笑しか帰ってこないように。
それでも何かを発することにだけこのブログの存在価値はあるんだろう。
だから言わしてもらう。

僕の好きな小説、阿部公房の『壁』は、砂漠と壁へと物語が収束していく。
それらは同質の存在であり、ひとつの救いであるのだろう。
けれど、ドストエフスキーが壁に頭をぶつける人間に対して迂回路を示し、阿部公房が壁に落書きをする可能性を示したとして、ぼくらのものがたりは砂漠と壁の世界から始まる。
そして、僕らは知らなければいけない。
砂漠と壁は、視界をふさぐものでありながら、出会いのかたちであるのだと。
僕らは壁をたたく。
音が広がり、それは顔の見えない誰かに届くのかもしれないし、届かないのかもしれない。
僕らは壁をたたき続ける。
そうしていつか顔の見えない誰かが壁をたたく音が聞こえ、見たことのない光景が現れる。
出会いとは、絶えざる始まりであるのではないかなんて、最近思うのだ。

そんなわけで、言いたいことなんて何もない。
そして、僕らは永遠に若い。
この生が永遠に回帰するとしても。